
今週のパック・エックス通信は、キスケ株式会社の山路専務です。
前編では創業者の想いをまとめたクレドの作成などのお話を伺っています。

山路大助氏
キスケ株式会社
専務取締役
1983年生まれ。筑波大学卒業後、父親が社長を務めるキスケ株式会社へ入社。現在は専務取締役を務める。
キスケ株式会社
http://www.kisuke.com
1970年に中四国産業開発株式会社を設立。2002年、キスケ株式会社に社名変更。PAOの屋号で愛媛県内に8店舗を展開する。その他、カラオケ、ボウリング、マージャン、温泉などのレジャー施設、不動産などの事業も行っている。
―山路専務、本日はよろしくお願いいたします。まずは、キスケ株式会社に入社されるまでの経緯を教えてください。
キスケ株式会社は私の祖母が創業者で、現在は父が社長を務めています。
私は男3人兄弟の長男なので、幼い頃から自分も父のように会社を継ぐのだろうなと意識していました。
筑波大学在学中には、父である社長が店舗周りをする際の運転手を務めたり、自社が運営するカラオケ店でアルバイトをしたこともありました。
そうして跡を継ぐことは意識しながらも、周りの友人たちと同様に就職活動は行っていました。いくつか内定を頂き、就職先を決めるにあたり、きちんと父と話をすることにしました。
父は、祖母が元気なうちに戻ってきて経営について学んでおきなさいとのことでしたので、実家に戻り入社することにしました。
―入社した当初はどのような事をされていたのでしょうか。
祖母であり、創業者である会長と一緒に住み、行動を共にしていました。
朝は4時に店舗に行って、遊技台の整備を行った後、朝食を摂ります。
その後は前日の売上確認を行った後、午前中は店舗を回ります。
昼休憩後は書類チェック、午後はまた店舗回り。戻った後は事務仕事などを行い、夜も店舗回りでした。
会長は当時80歳近かったのですが、365日整備以外はこのような生活をしていました。
私も会長と同じリズムで生活していました。
最初はよくわからないままに、とにかく会長について仕事を覚えていくことがメインでしたが、他店や、他業種の新しい施設などの視察も積極的に行っていました。
機械もできるだけ自分の目で見て決めようと、展示会にもほとんど参加しメーカーさんと話をしていました。
会長宅から出て、会社の全体像が見えてくるまでには2、3年はかかったと思います。
―会長との思い出で印象的だったことはありますか?
曽祖父の話や創業時の話など、いろんな話をしてくれました。
これらの話は一昨年前に、創業者の言葉を守っていこうと考え、社歴が長いスタッフからも聞き取りを行うなどして、数か月をかけてクレドにしました。
クレドの一部

実はキスケと言う社名は、祖母の父である曽祖父の名前からきています。
この話はクレドにも載せているのですが、曽祖父は家族を連れて海外で米を卸す商売をしていました。
曽祖父は、現地の人も雇い、食糧難に陥ったときには米が無くなるまで配るなど、従業員たちにとてもよくしていたんだそうです。
戦後、海外にいた日本人たちは、日本に戻ってくることになりました。しかし、そのとき多くの日本人が捕えられたそうです。
曽祖父一家も捕まりそうになったのですが、ある現地の人が曽祖父が商売をしていた頃に自分たち現地の人にもよくしていたことを知っていて、逃がしてくれてなんとか命拾いしたのだそうです。
そんなこともあって、祖母は曽祖父のように、「従業員を大切に」ということを心掛けていたようです。
このように創業者が大切にしてきた言葉を社内の共通言語になればと考えています。
各店舗にしっかり説明した上で、朝礼で読み合わせも行っています。
-続きは後編で!