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株式会社マルハン、武田幸久人材開発部部長 先達に訊く

株式会社マルハン、武田幸久人材開発部部長

近年のパチンコホール企業では新卒採用が当たり前のように行われていますが、20年前までさかのぼると入社の窓口は限られていました。20年前に入社して、パチンコ業界で長く働きキャリアを積み重ねてきた先達の年齢は40代~50代。今までの貴重な体験や苦労話をリアルに語っていただきました。

本日はよろしくお願いいたします。まずは入社の経緯から教えてください。

大阪体育大学在学中はトライアスロンをやっていて、部の主将も務めていました。競技としても好きだった自転車の会社から内定をもらい、就職活動を終えていた大学4年生の夏頃のことです。たまたま新聞を読んでいたら自転車業界はシュリンクしているという記事を目にし、それ以来仕事にすることに不安を感じるようになりました。

そんなときにタイミングよく、マルハンからのDMが届いたのです。これをきっかけに会社説明会に参加し、興味を持つようになりました。

マルハンのどのようなところに興味を持たれて入社を決められたのでしょうか?

「業界No.1」「業界を変える」というところです。もともとパチンコで遊ぶのも好きだったのですが、トライアスロン競技用の自転車は高いので時給がいいところでアルバイトしようと思いパチンコホールでアルバイトをしていたこともありました。

当時のパチンコホールといえば、スタッフはみんなパンチパーマで、「接客というよりも監視」という雰囲気でした。そんな現場を実際に体験しているからこそ、「業界を変える」という言葉に興味を持ちました。

それに、調べてみると当時全国にはパチンコホールが約17,000店ある中、業界No.1のマルハンでも店舗数は37店舗ということを知りました。これは成長性があるな、と感じたんです。外から眺めるのではなく中に入って自分自身が業界を変える仕事に携わりたいと思いました。

また、採用に対してかなり力を入れていると感じたことも大きかったです。店舗見学をさせてもらったり、豪勢な食事が出る懇親会に参加させてもらったり、正直、「学生に時間とお金をかけすぎじゃないか?」と思う一方で、「これだけの時間とお金をかけられるというのは素晴らしい企業だ」とも思いました。こういった理由から、自転車会社の内定を辞退し、マルハンに入社を決めました。

自転車会社からの内定を辞退し、マルハンに入社を決めたことに対して、周りの反応はどうでしたか?

賛成・反対あったのですが、当時付き合っていた彼女とは別れることになりました。大卒で部活の主将でなんでパチンコ?という感じだったんでしょうね。マルハンに入社すると伝えてからなんとなく関係が悪くなって別れました。その後、新しい彼女ができたのですが、それが今の妻です。でも就職先がマルハンだとはなかなか言えませんでした。

入社まで残り1カ月となり、いよいよ言わないといけなくなった時に、「ちょっとコンビニ行ってくるからこれみといて」と言ってマルハンからもらっていたマルハンパチンコタワー渋谷のグランドオープンのビデオをみせました。終わった頃に戻ってきて「ここで働くから」と伝えました。特に反対はされず、そうなんだという感じでした。

両親には反対されませんでしたが、親戚には息子がパチンコホールに就職したことを言えなかったようです。そのため親戚の人達は私の結婚式で初めて勤務先がマルハンであることを知り、「今すぐ辞めろ」と言われたこともありました。そんなこともありましたが、両親はマルハンの1兆円達成記念式典にも来てくれて、今では普通に私がマルハンで働いていることを話しているようです。

実際にマルハンに入社してみて、印象に残っていることはありますか?

私が最初に配属されたのは兵庫県にある大蔵谷店でした。この店舗はグランドオープン2年目を迎えたモデル店だったので、私を含め同期6名が一緒に配属されました。そんなモデル店でも当時はまだまだサービスマナーの意識があまり高くない先輩もいました。私たちは入社時研修で教えられていたこともあり、実際に現場に行った時にはギャップを感じました。

「こんなことで業界を変えられるのだろうか」と悩み、店長に相談したところ、全スタッフ約30名を集めてミーティングを開くことになりました。ミーティングでは全員目をつぶり、本気で業界を変えようと思っている人は手を挙げるように言われました。私、薄目を開けてみていたんですよ(笑)。もちろん私は手を挙げましたが、私の他には2人しかいませんでした。この時に手を挙げた全員が今もマルハンで活躍していまね。

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武田幸久/株式会社マルハン 人材開発部部長。1975年生まれ、香川県出身。大阪体育大学卒業後、1997年に株式会社マルハンの新卒5期生として入社。2002年にマルハン貝塚堤店で店長に就任。2004年に兵庫エリアのエリア長に就任。その後中国・四国エリアのエリア長を経て2010年に人事本部に異動となり、人事部を経て現在に至る。

仕事にやりがいを感じるようになったのはいつ頃からでしたか?

入社1年目で店の備品管理を任せてもらえることになった頃からです。最初はアルバイトとほとんど同じ仕事なので、「こんなことするために入ったんかなぁ」と思うこともあったのですが、徐々にできることが増えていくとやりがいを感じるようになり、仕事が楽しくなっていきました。

また、役職者になるための最初のステップは現金管理を任されることなのですが、入社3カ月目にして既にその仕事を任されている同期が1人いたんですね。そんなことがあり得るのか!?と驚きと共に、負けたくないという気持ちも持つようになり、それがモチベーションとなってそれまで以上に働くようになりました。

当時は2倍働けると思い、通し勤務は率先してやっていましたし、休憩も取らずに仕事をしていました。今の店舗は働く環境も変わっているので休憩も取らずに働くといったことはないのですが(笑)。入社から1年経った頃に現金管理の仕事を任せてもらえるようになり、その後も精力的に仕事を続けていました。

しかしそんな生活を続けていたところ、無理が祟って入社2年目で椎間板ヘルニアになってしまいました。4000玉入る箱を3箱持って運ぶなんてこともあったので、それを休憩なしに続けていたので、さすがに体への負担が大きすぎました。結局手術をしてしばらく入院することになりました。体が弱れば心も弱るものですが、入院中は「退院したらまたドル箱の上げ下ろしで再発したらどうしよう」とか、私はタバコを吸わないので「ホールで働き続けるのはどうなんだろう」と考えるようになり、もう辞めようかなと思うこともありました。実はこれまで4回辞めたいと思うことがあったのですが、これが1回目です。

ただ、「早く戻ってきてください」と言ってくれるスタッフたちがいたこともあり、復帰することができました。

これまでターニングポイントはいくつかあったのではと思うのですが、最初のターニングポイントはいつ頃でしたか?

入社から3年半経った2000年に初めて転勤した頃です。大阪の貝塚市に新店を出すことになり、そのグランドオープン準備から関わることになりました。新卒入社後に配属された兵庫の大蔵谷店ではマネージャーにまでなっていて、3年半働いていたので店舗のことはほとんど把握している状態でした。そこからの異動というのは様々な変化がありました。

まず、兵庫と大阪は同じ関西でも雰囲気が全然違うんです。兵庫は和気あいあい、大阪は体育会系。設置台数も400台から768台になり、設備も新しいものを揃えた店だったので、同じ役職とはいえど勝手はまったく違いますし、メンバーやお客様とも信頼関係を構築するところから始めなければいけませんでした。当時は、書類を全て各店で作らないといけなかったのですが、私を入れてマネージャーが4名いる中、パソコンを使えるのは私だけでした。そのため書類作りは自ずと私が担当することになり、グランドオープンの準備期間中ずっとパソコンで作業をしていたので、私はスタッフからは「パソコンマネージャー」と呼ばれていたみたいです。

私はそれまでスタッフとコミュニケーションを取りながら自分が率先して動くことでチームをけん引してきたので、そこに自信がありました。ですが書類作成に追われスタッフと全くコミュニケーションが取れず、チームの輪の中に入ることもできませんでした。そのためグランドオープンを迎えても、まったく喜べませんでした。

この頃が辞めたいと思った2回目で、毎日会社に行くのが嫌で仕方ありませんでした。グランドオープンは年末だったのですが、妻は年末年始も帰省せずにずっと付き添ってくれていました。一人にしておけないという感じだったのだと思います。病院に行っていたら鬱と診断されていたのではないかと思う程、自分で自分がよくわからないというか、自分を見失っていました。

例えば休憩回しをしていて、スタッフに休憩の指示を出しておいて自分も休憩室に行ってしまうんです。休憩室に入って行くと当然スタッフは「なんでマネージャーも来るんだろう?」という顔をするので、その顔を見て「あ、今休憩回してた」と気づいてまたホールに戻ったり・・・その他にもジェットカウンターに玉を流そうとして、なぜかその手前で箱を傾けてしまいこぼしてしまったこともありました。

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ホールスタッフ時代の武田さん

そういった状況をどのように乗り越えられたのでしょうか?

この時期はとにかく体が動かなかったので、それでもできることは何かと考え、朝誰よりも元気にスタッフを迎えることにしました。そのために栄養剤と栄養ドリンクを毎朝飲んで、その瞬間だけは元気にしていました。それを2、3カ月くらい続けていた頃、「武田マネージャーが一番がんばっている」と言ってくれたスタッフがいました。また、グランドオープンして1カ月目と2カ月目にはスーパースター※にも選ばれ、自分を支持してくれるお客様や仲間がたくさんいるんだなと思いました。こうしてお客様、仲間、家族の支えがあり、徐々に自分を取り戻していきました。

※スーパースター制度とは、店舗で働く社員、アルバイト問わず、印象に残ったスタッフをお客様やお店の仲間が投票し、月間で最も投票数が多かったスタッフをその月の「スーパースター」として表彰する制度のこと。

その後はどのようなキャリアを積まれていったのでしょうか?

入社5年目の2002年1月に店長になった後、その半年後の2002年6月にスーパーバイザー部ができることになり、立ち上げメンバーになりました。

スーパーバイザーとしての私の役割は17店舗の状態管理やマルハンイズムの伝承を行うことでした。毎日様々な店舗を見るうち、店長によって店舗に個性が出るものなんだなということがわかりました。同じマルハンでも、雰囲気や価値観が全然違うんです。自分が店長のときはそれがあまりわからなくて、自分のやり方が会社の方向性に沿っていると思っていたので「マルハンイズムじゃなくて武田イズムや!」と思っていたんですけど(笑)。様々な店舗を見たことで、ぶれない軸となるマルハンイズムの重要性を改めて感じましたし、個人の価値観を押し付けるのではなく、会社の価値観を共有することが大切だとわかりました。

その後スーパーバイザー部が解散することになったため2003年1月に店長に戻り、2004年4月までに店長として3店舗経験しました。短期間で3店舗経験できたのは、各店に異動して3カ月で業績を上げたからです。

3カ月で業績を上げた秘訣は何だったのでしょうか?

スーパーバイザーの経験を活かし、私が講師となって店舗スタッフ全員にマルハンイズムの研修を行いました。お客様に店が変わったと思ってもらうためには、スタッフが変わる必要があります。研修で方向性をひとつにし、モチベーションを上げるようにしました。

それから異動して1カ月間は課題を100個以上見つけることに専念し、2カ月目はその解決策を考え、3カ月目で解決策を実行し課題を全て解決しました。課題はお客様目線で店舗を見て探すことが多いのですが、例えばイスの座り心地が悪いとか、ここは空調が直接当たるから居心地が悪い、などです。

そうやって見つけた課題を、徐々に変えていくのではなく、3カ月目に一気に変えるのもポイントでした。一気に変えると、店が変わったことがお客様にわかりやすいので、「新しい店長やり手やな」と思ってもらえるんです。そうやって3カ月で業績を上げることに成功してきました。

2002年に店長に就任した後は順調にキャリアを積まれていった武田さんですが、その後のお仕事はどうでしたか?

2004年4月、29歳の時に兵庫エリアのエリア長になりました。その頃の兵庫エリアは経験豊富なベテラン店長が多く、全員私より年上でした。私は店長として業績を上げてきた自負があったので、ある意味“天狗”の時です。自分のやり方が正しいと思っていましたし、自分のやり方でやってもらいたいと思っていました。年上の店長にも平気で「予算を達成できないなら店長を降りた方がいい」といったことも言っていました。店長への指示ではなく、店長を飛び越えてマネージャーに直接営業の指示をすることも多々ありました。1年目は業績が上がったのですが、2年目には下がってしまいました。エリア長は、店長をモチベートしなければならないのに一番モチベーションを下げるアプローチをしていました。当時は、そのことに気付いていなかった。

この頃が3回目の辞めようと思った時ですね。私の上司である営業部長は私がやりやすいように店長を替えていくと言ってくださったのですが、もう心が折れてしまっていて、自分から「降ろしてください」と言いました。こうして2006年4月に店長に降格しました。

その後再びエリア長になられていますが、どういった経緯があったのでしょうか?

店長に戻った後、本社でエリア長会議があるから来るように言われ、参加しました。そこで中国・四国のエリア長をやってみないかと声をかけてもらい、再挑戦することになりました。

中国・四国エリアも経験豊富なベテラン店長ばかりだったので、これまでのやり方ではだめだと思い、半年間専属のトレーナーについてもらってコーチングの勉強をしました。

コーチングを学んだ後の周りの方との接し方はどのように変わっていったのでしょうか?

年上の方に対して指示するときに、それまでは「〇〇〇をやってください」と伝えることが多かったのですが、「〇〇〇と思うのですが、どう思いますか?」と伝え方を変えたり、「相談に乗ってくれませんか?」と声をかけるようになりました。店舗は、店長が主役です。店長がやりがいをもって働き、店舗で輝く存在にするためにエリア長は黒子のような存在と考え行動していきました。

こうして最初にエリア長になったときはなかなかうまくいかなかった年上の先輩店長たちとのコミュニケーションも徐々にうまくいくようになりました。中国・四国エリアでのエリア長は2010年まで4年間務めましたが、信頼関係を築くことができ、チームワークがよく、日々楽しく仕事ができるチームでした。

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エリア長時代の武田さん

現在は人材開発部で部長をされていますが、人事に来られたのはいつ頃なのでしょうか?

2010年の35歳の時です。この時が辞めたいと思った4回目なんですが…(笑)。

中国・四国でエリア長に就任してから4年目になったタイミングで、人事本部長から人事はどうかと誘って頂きました。でも私は人事部に良いイメージをもってなかったんですよ(笑)。だから誘われたときは「検討します」と返答しました。その2カ月後に人事本部長が中国・四国エリアの店舗を見たいと来られて、改めて「この間の話だけど…」と人事に誘って頂きました。

結果的に人事に異動しようと思った理由は2つあって、1つは中国・四国エリアはチームワークがよくて居心地もよかったからこそ、このまま続けていたら自身の成長が止まると思ったことです。もう1つは店舗スタッフの可能性を広げるためにも社内ベンチャー制度を作りたかったからです。エリア長では実現は難しいかもしれないけれど、人事に行けば実現できるかもしれないと思いました。

人事に異動した後、なぜ「辞めたい」と思うようになったのでしょうか?

私は社内で初めてエリア長から人事に異動しました。部署内のほとんどが人事のスペシャリストの中、私はというと役職は人事部次長 兼 人事課課長でしたが人事のことはほとんどわからない状態でした。しかも私が異動したことで元々いた課長3名が降職するという組織改編も同時に行われました。そんなこともあり、周りの目は厳しかったです。最初はよくわからないのでズレた対応をしてしまうことも多々あったのですが、、影でいろいろ言われていたんじゃないかなと思います。

そのため毎朝会社に行くのが嫌で嫌で…。毎週日曜の夕方になるとサザエさん症候群のように「また明日から会社か…」と憂鬱でした。この頃は妻が毎朝見送りをしてくれていました。今までそんなことなかったのですが、何かおかしいと思ったんでしょうね。

なんとかそんな状況を変えたいと思い、100万円くらいかけて伝える力を身につけるセミナーに1年間参加したこともありました。妻に内緒で参加したのでなかなか言えなくて…後でバレてちょっと怒られました(笑)。

こうした日々は1年間続いたのですが、1年人事の仕事を経験するとある程度流れが見えてきて、徐々に自身の考えを形にしていくことができました。また、営業の経験をしているから営業部長会議などにも積極的に参加して、人事の施策について自分の言葉で話したり、意見を聞いたりしています。そういったこれまでになかった人事としての姿が徐々に認められ、信頼されるようになり、仕事に自信ややりがいを感じるようになっていきました。

数々の困難を乗り越えられてきた武田さんですが、座右の銘はありますか?

「死ぬこと以外は、かすり傷」、「勝つこととは転ぶ度に起き上がることである」、「すべての逆境には、それと同等かそれ以上の幸せの種を含む」といった言葉が好きですね。

これまでいろんな困難があり、その時々は本当に辛かったです。ですが、こういう言葉を思い出してどこか楽観視するというか、できることを考えて動いたことで乗り越えることができたのではないかと思います。

武田さんの今後の目標を教えてください。

2つあるのですが、1つは70歳になっても知力体力ともに充実し今以上にバリバリ仕事をしていることです。「なんであんな元気なん」「あんな人になりたい」と言われたいです。なぜ70歳と設定しているかというと、今は65歳が定年ですが、今後は定年の年齢は上がるか、定年自体廃止になる可能性があります。60歳になってからやっぱり体力が必要だとトレーニングを始めても遅いので、30代なかばからトライアスロンを再開しました。

もう1つは56歳になったときに娘が腕を組んで歩いてくれるようなかっこいい父親でいることです。実は、私が56歳になったときに娘が20歳になるんですね。やっぱり一緒にお酒を飲みに行ったりしたいし、バーに一緒に行ってマスターにどんな関係だろうと訝しがられるような人でいたいです(笑)。

そういうビジョンを描いているのですが、人はどうしても弱い生き物です。そうならないように毎月トライアスロンやトレイルラン、マラソンなど何らかのレースの予定を入れて鍛えています。直近の大きな目標は、2018UTMFという富士山で行われるトレイルレース完走です。

最後にパチンコ業界で働く若い世代にメッセージをお願いします。

自分として業界をどうしていきたいのか、自分がどうありたいか、それぞれに対してビジョンを描くことが大切だと思います。ワークライフバランスと言われていますが、仕事もプライベートも自分自身のビジョンがしっかり描けていないと、充実させることは難しいです。ビジョンがあれば自分が何をやるべきかがはっきりしますし、困難があっても乗り越えることができます。

私はエリア長のとき、マネージャーに「店長になりたいか?」とよく聞いていました。「なりたい」と答えたら、「今のままでは、なれない」と答えていました。なぜなら「なりたい」という言葉の裏には「なれたらいいな」という言葉が隠れています。その状態では店長になるために必要な課題が見えていないからやることも決まらない。だから店長になれないんです。

店長になった人は、店長になることを期限付きで決めています。そうすれば店長になるための課題が見えてきて、いつまでに何をやるかが明確になっていきます。ですからビジョンを描くということは、期限を区切ってこれをやると「決める」ことです。

これまでたくさんの人を見てきて、意外とビジョンが明確に描けている人は少ないですが、描けている人は確実に目標を達成できていると感じます。

人それぞれタイミングがあるので、今はまだビジョンを描けていない人もいるかもしれません。ただ、やりたいことがあるなら期限を決めて、やると「決める」ことが必要なのではないかと思います。

ありがとうございました!

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