株式会社タツミコーポレーション、李煥辰社長 TOPから学ぶ 前編
ミクちゃんガイアの屋号で大阪府、兵庫県、山口県で29店舗を運営する株式会社タツミコーポレーションの李煥辰社長のトップインタビューです。前編ではご自身のキャリアについてお伺いしました。
李社長のご経歴を教えてください。
まず、生まれは兵庫県加古川市です。生まれてすぐ現在の平岡店の2階に住んでいた時期があります。タツミコーポレーションが設立する前だと思うんですが、お店兼自宅だったのでしょうね。
記憶にはないですが、写真で見たことがあります。小学校は神戸、大学は上京して中央大学の商学部経営学科に進学しました。
経営学科ということは、跡を継ぐことを決めていたのですか?
決めていたわけではないです。具体的にはまだ考えていなかった。大学卒業後は東京の町田市にある乗馬クラブに研修生として入社して、そこで3年働きました。
なぜ乗馬クラブに入社したのですか?
当時は普通に就職するのはおもしろくないと考えていたんですね。
元々競馬が好きで、馬に触ってみたいという気持ちから興味を持ちました。入社してみたら、職人の世界なのでとても大変で、1年くらいは月3万円くらいの給与でした。
馬のお世話をするので、夜は当直として泊まって、その手当が2千円でしたね。2年目くらいから乗馬のレッスンができるようになって、月10万円くらい貰えるようになりました。
実は人と話すのが苦手だと感じていて、乗馬クラブであれば、馬が相手ですから。
普段は社交的といえば社交的なんですが、仕事としてはどうなのかなと。就職活動もそれほど活発に行っていなかったし、エントリーシートを書くのもあまり好きじゃなかったですね。
誇張したものを提出することに抵抗がありました。でもレッスンなどで、お客様と接するようになって考え方が変わっていきました。
給与以外に大変だったことはどんなことですか?
馬小屋の掃除がしんどかったですね。馬は一日10キロ草を食べるんですよ。その掃除は重労働で、しかも3~4時間はどうしてもかかってしまう。
どうして厳しい環境の中で、3年も働くことができたのですか。
やはり周りの人たちとの関係ですね。上司がその世界では有名な方で、馬にとても詳しくて、私にもどこの業界でも通用する考え方を落とし込むような指導をしてくれました。
効率よく仕事をしていく基本的な仕事の仕方や人との接し方も学びましたし、丁稚奉公ではないですが、そこでは家族のように接してもらった。
乗馬クラブでは週末に少年団を受け入れていて、掃除などの手伝いをしてもらっていたのですが、そういった交流の中からも、人の回し方を学びました。
乗馬クラブを退職した後すぐにタツミコーポレーションに戻ったのですか?
いえ、半年間、韓国に留学しました。
その後に一度、タツミコーポレーションに戻りました。丁度ゴルフ練習場の立ち上げがその時期で、半年くらい在籍しました。
その後父から声がかかって出向という形で3年程オリックスで営業職として働きました。
そこで不動産や金融を学んで、またタツミコーポレーションに戻ったという経緯です。
営業職をやってみていかがでしたか。
非常に難しかったですね。地主さんから土地を借りて、オリックスが建物を建てて、テナントとして販売店に入ってもらうという仕事なのですが、年間1件やったらミッションクリアなんですよ。そうなると新人は1件も難しい。
0か100かという状況がしんどかった。当時のオリックスは、まだ昭和の体育会系の部分もあって、あまり指導などもしてもらえなかったですね。出来る人に同行して見て覚えるという感じでした。
その経験を経て、タツミコーポレーションに改めて戻ることになったのですね。最初はどのような仕事をしていたのですか?
最初は不動産事業のグループ会社に在籍していました。
タツミコーポレーションに戻って、取締役財務部長として2年、副社長として1年働いて、2018年11月から代表取締役社長に就任しました。
その時はどのような心境でしたか?
社長に就任した時は、全てが自分事になった瞬間でした。財務部長や副社長の時は、ちょっとダメな時は社長のせいにできるじゃないですか(笑)それがもうできない。全て自分の責任として物事を進めていくということに大きな責任を感じました。
李 煥辰/株式会社タツミコーポレーション 代表取締役社長。大学卒業後、乗馬クラブや大手不動産会社での営業職を経験し、2015年に家業である株式会社タツミコーポレーションに入社。2018年11月に代表取締役社長に就任。
社長に就任して、真っ先に取り組んだことはなんでしたか。
その当時は、まだトップダウンで、評価は減点法でした。それを【チャレンジすることを良しとする文化】に変えたかった。
成功したらものすごく称賛されますけど、失敗したらすごく責められるというのは良くないと思っていて、まずは自分を表現することを評価して、特に初めの2年間はありとあらゆる価値観を認めました。
チャレンジするマインドを確立していきたかった。やはりチームとしても機能していなかったので、【チームとして動くことの大切さ】を浸透させていくことから始めました。
方針がガラッと変わったことで、社員からの反発はありましたか?
それはあまりなかったと思います。【対話する時間】を徹底的に取りました。その時期は降格の文化を浸透させたと思います。
当時は会長が評価している社員でも、自分のスタンスとは違うという事をしっかり伝えましたし、そこでポジションが変わることもありました。
厳しいけども、避けられない事だったのですね。
そうですね。下手をすれば会社の存続にも関わるので、やらなきゃならなかったということです。
過去若い社員もポストが空かない(=努力しても報われない)状況に対して憤りがあったと思います。そこから脱却するのもとても大変でした。
そのように改革を進めていって、社長自身、組織が変わったなと実感した瞬間はいつでしたか?
私が行ったことは、成長を続けるために、課題をずっと洗い出していくことだったんですね。
課題を見つけて潰していくことが仕事なので、現在の課題についての話を役員層としている中で、その内容が2.3年前に比べたらすごく成長しているという話になって、その時に実感しましたね。
後編に続く