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vol108 株式会社フェリックス 桜井正熙社長 前編

フェリックス様前 今週のパック・エックス通信は、株式会社フェリックスの桜井正熙社長です。 「幼い頃から経営者になりたいと思っていた」と話す桜井氏は23歳で起業し、現在は北海道内にてパチンコ店5店舗を経営されています。 前編では、起業するまでの経緯と起業後のエピソードについてお伺いしています。 フェリックス様プロフィール桜井 正熙氏 株式会社フェリックス 代表取締役社長 19歳の時にパチンコ店で働き始める。1996年、23歳で飲食店を起業。2001年にパチンコホールの経営を始め、現在に至る。 株式会社フェリックス(http://www.yamatogroup.co.jp) 平成13年設立。 北海道にパーラーヤマトの屋号で5店舗を展開。 ―本日は宜しくお願い致します。まずは、起業したいと思うようになったきっかけを教えて下さい。 私は小さい頃から、早く大人になりたいと思っていて、大人たちの会話や行動を意識して聞いたり見たりしていたんですね。 中学生の頃に知り合った方が、パチンコホールのオーナーをされていて、その方に強い憧れを抱くようになりました。 やはり経営者というのは会話の深みが違うなと、幼いながらに思ったんですよね。それに羽振りが良くて、男前に見えたんです。 その頃はパチンコ店の経営者になろうとは思っていませんでしたが、漠然と、雇われる側でなく雇う側になりたいと思ようになりました。 ―経営者になるきっかけは何だったのでしょうか。 高校卒業後、伯父が経営するパチンコ店で主任として働きはじめました。実際の仕事内容としては、店長に近かったと思います。 19歳から23歳になるまで働きましたが、退職のきっかけは上司とウマが合わなくなってしまったことですね…。仕事も楽しくないと思うようになり、一度はこの業界を去ったんです。 そのタイミングでビルのオーナーをしている知人から「(自分が所有しているビルで)何か事業をやらないか」というお話を頂きました。 経営者になってしまえば、自分の思い通りにできるし、もともと経営者になりたいという夢を持っていたし、若い体を持て余していたこともあって、二つ返事で答えました。 そこでの最初の事業はパブの経営でした。これがビジネスとして大当たりしたんです。 北海道の地方だったので、他に競合もいないような独壇場で、1年の間に3店舗まで拡大をしました。 でも、初めてのことばかりで、もちろん大変なこともありました。 しかし、夢だった経営者になれたので、その苦労さえも楽しいと思えました。 当時を振り返ると、経営者として儲けることの面白さを知り、経営のいい面を学んだ時期だったなと思います。 ―飲食店の経営をされていたということですが、なぜパチンコ事業を始めることになったのでしょうか。 時代の流れと共に、違う商売を考えていかなければと思うようになりました。 そこで以前働いていたパチンコ店のことを思い出し、自分のスキルがあるのはここだと考え、新たな事業として行っていくことに決めました。 資金は少なかったですが、私の父が以前パチンコホールを経営していたことがあったので、父の協力での名義で資金調達をすることができました。 そうして平成13年に第一号となるパーラーヤマトを広尾町に出店し、パチンコ事業をスタートさせました。 ―パチンコ事業を始められた当時で、印象に残っているエピソードをお聞かせ下さい。 参入障壁が高いな、と思いましたね。 取引実績がない最初の頃は遊技台を卸してもらうことができませんでした。 ただ、それはもう受け入れるしかないですからね。物がない中で勝負するしかありませんでした。 ―そのような中で事業をスタートされてみて、最も大変だったことは何でしょうか。 スタッフの育成が最も大変でした。 汗を流して頑張ろうという人が少なかったんですね。 人材育成のスキルもなかったので、相当な苦労をしました。 自分が模範となって汗を流して働いている姿を見てもらえば、気づいてくれるかもしれないと思い、トイレ掃除を自らが率先して行うなどをしてみたのですが、全く反応がなくてですね。 しかし、その問題は視点を変えたことで改善されました。 ―どういった視点の切り替えを行ったのでしょうか。 最初はパチンコだからだと思っていたのですが、地域特性なのだと考えるようになったんですね。 そのように考えるようになったきっかけは、他の地域のパチンコ店に調査をしに行ったことでした。 都心部のパチンコ店に視察に行き、そこで働く人と接するうちに、地域によって働く人の姿勢が違うということに気づくことができたんですね。 それまでは、広尾の店舗でしっかりとした実績を上げようと考えていましたが、広尾に固執することをやめました。 他の地域にも店舗展開をしていきながら、同じ想いを持って共に働くことができる仲間を探していこうと考えるようになったんです。 このように視点を変え、実際に江差町に出店をしたのですが、これを機に風向きが一気に変わりました。 ―視点を変えたことで、軌道に乗られたのですね。その後の出店はどれくらいのペースで行われたのですか。 2、3年お置きに出店をしてきました。 また、ラーメン屋や焼き肉屋、喫茶店やレストランなどの飲食店の経営も始めました。 しかし、しばらくして5号機問題が起こり、メイン事業であったパチンコ経営が厳しくなってきました。 同時に飲食事業での私自身の労務も過多になり、経営の管理体制が散漫になりつつありました。 そこで、会社の収益の柱であるパチンコ経営を引き続き行っていくためにも、一旦飲食事業は売却撤退し、パチンコ事業の経営の立て直しに注力していくことを決意しました。 整理をするためにも、重要なもの以外は捨ててしまおうと思ったんですね。 収益力が悪化して、従業員に賞与を上げられないような厳しい時代もありましたが、この時の決断が功を成し、何とか厳しい時代を乗り越えることができました。 現在では、財務体制も改善されてきています。 ―続きは後編で!
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