
今週のパック・エックス通信は、三恵観光株式会社の杉本潤明社長です。
「イギリスへの留学が自分自身を大きく変えるきっかけになった」と話す杉本氏は、現在はパチンコ店、ボウリング場、ゴルフ場、飲食店などを経営し、総合レジャー企業を目指されています。
前編では、三恵観光株式会社に入社するまでの経緯と入社時の社内の状況などについてお聞きしています。

杉本 潤明氏
三恵観光株式会社 代表取締役社長。
大学卒業後、不動産会社での勤務を経て、プログラマーに転職。
28歳の時に、三恵観光株式会社に入社。現在は、代表取締役社長を務める。
三恵観光株式会社(
http://www.sankei-kanko.co.jp)
昭和46年設立。
ダラム800の屋号で京都府にパチンコ店を1店舗展開。
他にもゴルフ場やボーリング場、飲食店などを運営している。
―本日は宜しくお願い致します。まずは、三恵観光株式会社に入社するまでの経緯について教えて下さい。
私は、商売をしている実家が嫌でした。
だから幼いころからずっと、高校を卒業したら家を出て、東京の大学に進学しようと決めていました。
どうせ家を出るなら、遠くに行ってみようと考え、大学1回生の1年間イギリスに留学しました。
今考えると、4年間そこで過ごせばよかったと思うくらい、気づきに溢れ、考えさせられることの多い留学経験でしたね。
―留学先ではどのような経験をされたのでしょうか。
一言で言ってしまえば、アイデンティティの壁にぶち当たったという感じでしょうか。
そのきっかけとなったのは、留学先での自己紹介でした。
当時、私はまだ韓国籍で、それまでずっと「杉本」として生きていましたが、初めて手に入れたパスポートには「朴」と記名されていました。
自己紹介をするとき、自分自身がわからなくなり、戸惑ったことをよく覚えています。
そして、最も自分自身の中で衝撃的だったことは、同級生のほとんどが明確な将来の夢を持って大学に進学していたことです。
日本の大学生の多くがそうだと思うのですが、私は4年間遊ぶつもりで大学に進学をしました。
ところが、「なぜ将来やりたいことが決まっていないのに大学に進学したんだ」、「将来のために勉強したいことがないのなら、高校を卒業してすぐに働くべきなんじゃないのか」と言われたんです。
色々な国籍の人がそこには集っていましたが、何の目的もなく大学に進学しているのは私だけといっても過言ではありませんでした。
当時の出来事は私にとって、人生観を変えるきっかけとなりました。
―大学を卒業後はどのようなお仕事をされていたのですか。
東京で不動産会社の営業職につきました。
実力主義の会社で、営業部長が木刀を持ってウロウロしていて、休みの日に休んでいたら「お前よく休むなぁ」と言われ、ノルマはないけど目標はある。極限にまで追い込まれましたね。
でも、そこで厳しさの中にあるぬくもりを教えてもらったと思っています。
新卒の中で1番に契約を取れた時、それまでほとんど話したことのない上司からおめでとうと言われ、札入れをプレゼントされたんです。
22歳で札入れなんて使い道がわからなくて、思わず、「小銭を入れるところはないんですか?」って聞いてしまいました(笑)。でも、素直に嬉しかったですね。
その後、主任にまで昇格しましたが、入社から1年半後に過労で体調を崩してしまいまして、仕方なく退社をすることになりました。
入社しときには同期は40人いましたが、その頃には私が最後の一人になっていました。
振り返ってみると大変厳しい環境でしたが、とても楽しかったと思います。
そこで教えてもらったことがあるから、今の自分があると思っています。
―退職後は、何をされていたのですか。
当時はWindows95が発売されたばかりだったので、私はパソコンに関わる仕事もおもしろいのではないか、と注目していました。
そんなときに、たまたま求人誌を見ていたら、初心者大歓迎のプログラマーの募集広告を見つけたんです。
すぐに応募をし、転職することが決まりました。
ところが入社してみると、初心者は私だけでした。
研修を受けても専門用語ばかりで意味がわからず、いつも一人で会社に残って勉強をしていました。ですが、それでもやはり周りとの技術には差があり、毎日、苦労の連続でした。
でもその中で、自分の生きる道がだんだんとわかってきたんです。
私以外の人はみんな技術面での能力は高いのですが、人に物事を伝える力は私の方が長けていると思えました。
そこで私は、お客様に説明をするための資料を作成したり、お客様の要望を聞いて、それをプログラマーに指示したりするような、お客様と私たちの間を繋ぐような仕事をするようになりました。
自分の居場所を見つけ出した私は、28歳までその仕事を続けました。
東京に来てから約10年が経っていました。
当時7年間付き合っていた彼女がいたのですが、その人と結婚をすることになり、そこで改めて自分の人生の今後を考えてみて、会社を引き継ぐことを視野に入れ、退職をしました。
―28歳で転機が訪れたのですね。三恵観光株式会社に入社することになった時のことについて教えて下さい。
実は、私はパチンコが嫌いでした。
私が育った町はとても小さかったので、パチンコ屋の息子だと町中の人に知られているんですよね。だから、色々と良くないことを言われることも多かったんです。
小さい頃に道で知らないおじさんから、「お前のランドセルはわしが買ってやったんじゃ」と言われたこともありました。
そのため、パチンコに対して怖いイメージが強く、継ぎたくもありませんでした。
しかし、私は長男なので、心のどこかでは継がなければならないとはわかっていました。
結婚をするタイミングで、父親から兵庫県にあるゴルフ場を任せたいので戻ってきて欲しいと誘いがありました。
ゴルフ場ならと思い、東京を去ることを決意しました。
パチンコ事業も見ることになったきっかけは、ある父との会話でした。
ある日、私はゴルフ事業の報告のために本社に行きました。そのとき父親から「この会社は何で回っている会社かわかるか」と聞かれました。
私は、「パチンコ事業です」と答えました。
すると父は、「じゃあお前は、ビジネスとしてのパチンコがわかるのか」と、また私に問いかけました。
私は、「わかりません」と言うことしかできませんでした。
会社の大きな柱は、パチンコ事業です。
父親に上手く言いくるめられた形かもしれませんが、その時の父親との会話を機に、私は意を決し、パチンコ事業とゴルフ事業の両方を見ていくことになりました。
―続きは後編で!