
今週は株式会社不二商事の安藤社長に登場頂きました。
入社当初から様々な社内改革に取り組まれた安藤社長。前編では入社した当初のお話を中心にお伺いしました。

安藤慎一氏
株式会社不二商事
代表取締役社長
大学卒業後、東海銀行(現三菱東京UFJ銀行)を経て株式会社不二商事に入社。2010年には企業理念を策定し、新卒採用も開始する。伊豆地区を日本一元気にしたいという想いから、介護事業もスタートした。
―まずは不二商事に入社されるまでの経緯を教えていただけますか?
私が中学生のときに両親がパチンコ事業を始めたのですが、元々は家業を継ぐという考えは私の中にありませんでした。親からも特に何も言われていなかったので、就職活動は金融機関を中心に行いました。当時の都市銀行から4社内定を頂いたうち、三菱東京UFJ銀行の前身となる東海銀行に入社したのですが、東海銀行に決めたのは父の勧めでもありました。
銀行マンとして始まった社会人生活でしたが、私が30歳のときに母が亡くなったことをきっかけに、父から家業を手伝わないかという話がありました。最初は色々と悩みました。
ですが、ひとつのきっかけになったのは、銀行マンとして仕事をしているときにパチンコホールの経営者の方にとてもお世話になったということでした。
当時私は融資をしていたのですが、お客様の中にはパチンコホールの経営者の方も数名いて、みなさん豪快で面白い方々で、非常にかわいがってもらっていました。ノルマが足りない商品はあるかと聞かれ、そのノルマに協力してくださることもありました。パチンコ業界にはこんな素敵な方々がいらっしゃるんだなと感じていました。
そんな経験もあって、31歳の時に実家に戻って家業を手伝うことに決めました。
―実家に戻られて、最初はどのようなことから始められましたか?
父に最初にやるように言われた仕事は、ジュースの自販機の売上金管理でした。
ジュースの仕入に対し、売り上げがどうしても合わないから何とかしろ、というものでした。
そこで毎日自動販売機のお金を硬貨計算機にかけて確認することから始めました。これが、わが業界に入って最初にやった仕事です。
私が戻った当時の当社はジュースの自販機1台の管理ができない程、非常に荒れていたのです。
母が亡くなるまでの闘病生活が長く、父が看病につきっきりとなってしまい、会社の管理がおろそかになってしまっていたことが原因だったと思います。
スタッフの身だしなみに関しても、制服がなかったこともあって皆好きな服装で出社していましたし、たばこを吸いながらホール廻りをしていたスタッフも多数いました。
そこでスタッフの気を引き締めるためにも制服をつくりました。そして、スタッフはホール内で禁煙にしました。
それから景品POSの設置も行いました。当時はジェットカウンターはあったものの、景品の管理がかなりアバウトだったんです。
そうやって少しずつですが、荒れた店舗を立て直していきました。
―銀行マン時代とのギャップを感じることはありませんでしたか?
ギャップはありましたね。
特にパチンコ業界で常識とされている商習慣と、一般的な商習慣にはギャップを感じました。最初の頃は非常に驚きました。
例えば当時は台の抱き合わせ販売が非常に多かったですし、自分で台を選ぶというよりも、営業マンに案内されたものを言われた通り買うのが普通でした。展示会に行って自分の目で台を見るという習慣がなかったんです。
そこで社長に展示会に行って自分で選びたいと提案しました。無駄な時間と反対されましたがどうにか押し切って展示会へ行き、自分で選んだ台を導入しました。
するとその台がお客様に非常に好評で、それまで閑古鳥が鳴いていたホールにお客様が少しずつ増え始めたんです。
ちゃんと選んで台を導入することの重要さを示すことができ、展示会に行くことに誰も文句を言わなくなりました。
―新しい取り組みを行うことに対して、周りの方から反対の声などはあったのでしょうか?
やはり社長の息子とはいえ、元からいたスタッフたちにとって戸惑いがあったんだと思います。
実は私は30歳になるまでパチンコをやったこともありませんでした。ですからパチンコのことを何も知らない人が突然来たという感じだったのではないでしょうか。
それに父もこれまでのやり方を変えるということには多少なりとも抵抗があったのではないでしょうか。
新しいことに着手をする以上、結果を出さなければ人はついてきません。プレッシャーを感じながらも、チャレンジすることを恐れずに様々なことに取り組み、少しずつ結果を出していきました。
そうすることで徐々に社員たちの信頼を得ることができました。
入社当初は役職はなかったのですが、社員の間から私に何か役職をつけてほしいという声が挙がり、専務という役職を頂くこともできました。
―入社当時はご苦労もあったかと思うのですが、何がモチベーションになっていたのでしょうか?
パチンコ業界で働いていることに誇りを持ちたかったんだと思います。その想いは今でも変わっていません。
私は中学生の頃、親がパチンコホールを経営しているということで周りから、からかわれることもありました。
当時の私にはパチンコが「いい」とか「悪い」という発想がなく、なぜからかわれているのかがわかりませんでした。しかし決して気分のいいものではありませんでした。
だからこそ、入社当初は自分自身が誇りを持って働ける店舗にしたいという想いで仕事をしていました。
今では私だけでなく、パチンコホールで働いているスタッフの皆さんやその家族が自分と同じ思いをしないような業界にしていきたいという想いに変わってきています。
(つづく)
後編は8/27公開予定です!