パックエックス通信

臼井産業株式会社、波山鍾範社長 TOPインタビュー

波山鍾範/臼井産業株式会社 代表取締役。大学卒業後、美容皮膚科のクリニックを起業。4年半前に家業である臼井産業株式会社の代表取締役社長に就任。現在は、新規事業も手掛けている。

今週のパック・エックス通信は、臼井産業株式会社の波山鍾範社長です。「昔から事業をやりたいと考えていた」と話す波山社長は、学生時代にボストンに留学し、帰国後、美容皮膚科クリニックを起業した経験のある、やり手の若手社長。パチンコ業界で働くまでの経験や経緯についてや代表取締役社長に就任後のお話や新規事業についてお伺いしています。

本日は宜しくお願い致します。まずは、入社までの経緯についてお聞かせ下さい。

入社をしたのはちょうど4年半前になります。それまでは、ピーリングや脱毛などを行う美容皮膚科を経営していました。大学時代は、かねてからの希望だったアメリカのボストンに留学しました。実はそれまでいろいろとあり、親には随分と反対をされましたが、懇願し、何とか許しをもらっての留学でした。

ボストンではどのような暮らしをしていたのですか。

ボストンにある大学の機械工学部に4年間通い、自動車や航空機に近いハードウェアの勉強をしていました。

休日は、大学の近くにレッドソックスの本拠地であるフェンウェイパークがあったので、野球観戦によく行っていましたね。当時は野茂投手がレッドソックスに在籍していたり、イチローがメジャーデビューをしたりと、日本人選手が大活躍していた時だったので、とても楽しかったです。TBSの報道陣が球場に来ていて、インタビューを受けたことなんかもありましたよ。球場のスクリーンいっぱいに私が写し出されていたので、緊張して上手く話せませんでしたけど(笑)。

4年間の大学生活を終えた後はどのようなことをされていたのですか。

親戚に医師がいるのですが、ちょうどその頃、その人と美容皮膚科の経営を始めようという話が持ち上がったんです。それでその道に進むことを決め、日本に戻ってきました。

もともと医療系のお仕事に興味はあったのですか。

正直、全くありませんでした。ただ、ビジネスとして面白そうだなと思ったんです。当時、ピーリングや脱毛などのクリニックが流行り出していたので、これは儲かるんじゃないかと思いました。昔から事業を起こしたいという気持ちがあったことも、開業するきっかけでしたね。

そこでは、どのようなお仕事をされていたのですか。

医師免許がなければ行えないこと以外の全ての業務を行っていました。管理、経営、人材募集、広告、経理、レセプトなど、本当に全てですね。

もちろん、それまでにそのような業務に関することは一切学んでこなかったので、全て手探りでした。最初は、帳簿の付け方すら分からなかったですからね。日々の業務に追われながらも、勉強をして確実にできることが増えていっていきました。あの時の経験は、自分自身を大変成長させてくれたと思っています。

分からないことだらけで、毎日大変だったと思うのですが、中でも特に厳しかったことは何でしたか。

当たり前かもしれませんが、計画表を作ってはみたものの、実際に数字通りに事は運びませんでした。準備期間であったオープン前の3カ月間は、休みなく毎日深夜2時近くまで仕事しなければならないくらい、本当に大変でした。

それと、パチンコ店と違って、グランドオープンだから長蛇の列ができるというわけではありません。オープンしてからの半年間は赤字続きでなかなか目に見えた成果が出ず、毎日辛かったです。ですが、徐々にではありましたが、半年後には黒字になり、最終的には利益も多く出るようになり、とても嬉しかったですね。

他にはスタッフとのコミュニケーションの面で苦労しました。女性が多い職場だったのですが、私は昔から女性の扱いが苦手で。男女関係ないかもしれませんが、先陣に立って指揮を執ることの難しさを教わった時期でもありました。

仕事ですから大変なことや辛かったことの方が多かったです。ですが、それでも事業が育っていくことの喜びの方が大きかったので、乗り越えて来ることができたと思っています。

4年半前に家業である臼井産業株式会社の代表取締役に就任されたとのことでしたが、なぜ立ち上げた事業を辞めて、継ぐことを決意したのでしょうか。

一言で言ってしまえば、やらざるを得なかったからです。

先代の体調が悪くなり、指揮をとれる人が誰もいませんでした。それに加え、経営状況も思わしくなく、誰かがやらなければいけない状態でした。

それまで父の跡を継ぐ気はありませんでした。ですが、その時は経営を立て直すことができるのは自分しかいない、やるしかないと思い、決意を新たに臼井産業株式会社の代表取締役に就任することを決めました。

代表取締役社長に就任後、最初に行ったことを教えて下さい。

まずは経費の使い方を見直しました。最初は周りからの反感もありました。パチンコ業界を経験したことのない若者が、いきなり社長になったわけですから、当然です。それだけでなく、人件費の削減や、その他にも経費削減に取り組みだしたわけですから。

しかし、それまでと同じことを続けていたら、廃業を迫られることは確実でした。誰も行動せずにこのまま進んでしまえば、全てのスタッフが職を失うことになってしまう。それだけは経営者として防がなければいけない。その信念のもと、嫌われることを覚悟して、決意を持って組織改革に取り組みました。

結果的に、徐々にではありますが、投資ができるまで資金を増やすことに成功しました。半年前には、屋号を「パーム」から「ガリレオ」に変更し、店舗の全面改装も行いました。

店舗の全面改装や屋号の変更などは、どういった想いでされたのですか。

まず、外観に関してはお客様の記憶に残るようなものにしたいと考え、ピンク色を基調とし、大胆な改装を行いました。次に、内装に関してはお客様に少しでも長く遊技してもらえるよう、快適な遊技環境作りにこだわりました。屋号は、他になく覚えやすいもの、と考え「ガリレオ」に変更しました。

全てに共通しているのは、地域に密着し、来店して頂けるお客さま一人一人と丁寧に関係を構築していきたいという想いです。遊びの場とした集客を目指し、徐々に地域に浸透していければと考えています。

今後のビジョンを教えて下さい。

今後はパチンコ業界だけではなく、他業種にもチャレンジしたいと考えています。現在は、福祉事業の立ち上げを考えています。来年、医療・介護に関する法律も変わりそうなので、一日でも早くスタートしたいと考えています。

今は、責任者に研修を受けさせているところです。まずは試験的な意味合いも含めて、1店舗、経営していこうと考えています。

なぜ、福祉事業を行おうと思ったのですか。

昔から福祉系の仕事に興味はあったことと、初期投資が少なくて済むことです。パチンコホールは改装をするだけでも、約1億円近くかかりますが、デイサービス等であれば、同額の投資金で10店舗も新規出店をすることができます。

初めての経験であるパチンコホール企業の経営を行うにあたり、先代の社長であるお父様からアドバイスは受けましたか。

実は、父から仕事を教わったことは一度もないんです。もともと、家業を継ごうとは考えていなかったこともあり、社長に就任する以前も、一度もパチンコホール企業の経営に関する話は、父から聞いたことがありませんでした。ですから最初はとても大変でしたが、今では父から仕事を教えてもらわなかったことが逆に良かったのかもしれないとも思っています。

父はパチンコ業界の景気が良い時にパチンコホール企業の経営を始めました。当時は台を置いていればお客様が入った時代です。ですが、今は違います。遊技人口も減ってきていますし、店舗数も企業数も減少傾向にあります。台の性質も変わりました。

私は現在38歳になるのですが、景気の良かったころのパチンコ業界というものを見たことはありません。パチンコやスロットの遊技経験も学生の頃に少しあるだけです。景気がよかった頃のパチンコ業界を知らない分、先入観なく今の時代にあった経営について考えられることが、私の強みなのではないかと考えています。

最後に座右の銘があれば、教えて下さい。

「意志あるところに道はある」という言葉ですね。

成功している人には色々なタイプの人がいると思います。例えば、スピーチやプレゼンが上手な人もいれば、下手な人もいる。豪快な人もいれば、そうでない人もいる。誰一人として、同じ人間はいないと思うのですが、彼らの共通点がひとつだけあると思っていて、それが、信念を持っていることだと思うんです。

だから、私も、この言葉をいつも胸に生きています。

ありがとうございました!

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