今週は株式会社ゆたか代表取締役の濱田豊和さんのトップインタビューです。
1号店のオープンから63年。老舗パチンコ店の3代目社長として、地域社会に根付いた経営を行っている濱田さん。他業種での経験や定期的なドラッカーの勉強会での学びをどう自社の経営に生かしているのか。たっぷりお話を伺ってきました。

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TOPから学ぶ!vol.60
株式会社ゆたか 濱田豊和社長 前編

濱田 豊和さん
株式会社ゆたか 代表取締役
東京都遊技場組合連合会 青年部会長
法政大学卒業
1号店のオープンから63年。老舗パチンコ店の3代目社長として、地域社会に根付いた経営を行っている。
また、東京都遊技場組合連合会の青年部において部会長を務め、業界の向上のために幅広い活動を展開し活躍をしている。

―本日はよろしくお願いいたします。ではまず、社長になられた経緯から教えていただけますか?

もともと家業を継ぐ気はなく、大学卒業後は洋服屋に就職をしました。スーツが嫌いなので私服で働けるところが良かったんです(笑)。そこでショップ店員として勤務した後、バイヤーとしてアメリカに転勤し買い付けを担当していました。
現在は入社して14年目。社長に就任して4年目です。

―そのようなお仕事から、家業を継ごうと思ったきっかけは何だったのですか?

創業者である祖父が亡くなって、父から日本に戻って来いと言われたんです。
当初は、アメリカで永住権をとってカウボーイになりたかったので断りました。でもそんな時に、日本であまり古着が売れなくなっていて、会社としてはアメリカで倉庫を抱えてまでやる必要がなくなった。そこで、会社から帰ってこいという話が出たんです。日本に戻ってまたお店に出ても、アメリカに滞在していた時の知識や経験が活かされるのか、という葛藤がありました。さらに労働ビザがちょうど切れる時期で、アメリカに滞在することさえ出来ない。これは、もう日本に帰ってこいという、祖父からの天の声なんだと思って、やるしかないと腹を括って帰ってきました。
もしかしたら、家とお店が離れていて、父がどんな場所でどんな仕事をしていたか分からなかったら、家業を継いでいなかったかも知れません。家の下に店があったことで、商売を目の前で見ていたダイナミック感が大きな影響を与え、後々きっかけとなったのだと思います。

―その後、すぐに入社したんですか?

パチンコのことを何も知らなかったので、修行のために他社で1年間アルバイトをしました。
店長と教育担当者の2名だけは事情を知っていましたが、その他の方には言わずに、いちアルバイトとして働いていましたね。それが26~27歳の頃です。一応私も社会人として働いていたプライドはあったので、自分より年下のアルバイトに叱られた時は相当ストレスが溜まりました(笑)

―前職とのギャップはありましたか?

前職の時も店舗で接客の経験がありましたので、サービス業という意味ではあまりギャップを感じてはいませんでしたね。
子供の頃から実家の仕事を見ていたおかげで、お客様と接する事に慣れ親しんでいたので、そういう意味では実家が商売をやっていたという事が私にとっては良かったと感じています。

―ご実家に戻られて、最初はどのようなお仕事をなさっていたのですか?

3店舗あったので、最初のうちは1週間ずつ店舗をまわって顔見せのようなことをしながら、イベント内容の考案などをしていました。その当時は、まだうちの店舗では本格的なイベントなどをやっていなかったのですが、それ以外にも旧態依然を感じる部分があったので、若い人間をピックアップして、改革に乗り出していましたね。やはり基本的にはオペレーションとマネージメントは別物だと考えています。とは言え、現場での1年間はとても貴重な経験となりましたよ。

―お若いうちに経営陣として入った事で、古株の社員の方と軋轢などがあったのではないですか?

やはりありました。基本的な考えが全く違いますし、特に変化に対する考え方は、まったく合わない社員が多かったです。経営陣に若くてイケイケな人間が入ってきたと言うことで、受け止め方も様々だったと思います。子供の頃から知っている社員にも立場上厳しく言わなくてはいけないのは辛かったですね。でもお店を良くしていかなくてはなりませんから。

―社長になられる前から改革は徐々に進めていたのですか?

そうですね。社長になるまでの役職はステップアップ式でしたが、実務的な事は当初からやっていました。父は2代目ですが婿養子なので、初代には色々と言われたと思います。そのせいか私には特に細かい事は何も言いませんでした。好きなようにやらせてもらえたと思います。特に父とは軋轢は無かったですね。

―続きは後編で!

 

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