パックエックス通信

株式会社アクセス、日比野光守社長 TOPから学ぶ 前編

東京都と神奈川県にアクセスの屋号で5店舗を運営している株式会社アクセスの日比野光守社長にインタビューをさせて頂きました。前編では、会社の歴史、アクセスという社名に込められた想いを語って頂きました。

会社の歴史について教えてください。

元々は父が名古屋で煙草の販売を行っていて、私が幼少の頃、家族で川崎に引っ越したときにスマートボールのお店を始めました。これが、この地域で商売を始めたきっかけと聞いています。

パチンコ業界に参入したのはいつ頃ですか。

スマートボールを運営し始めて1年~2年経った頃、今のアクセス川崎店のある場所でパチンコ店の運営が始まりました。このパチンコ店はホームランという屋号で、多い時には10店舗程運営していました。

ホームランからアクセスへ屋号変更したきっかけは。

半数のパチンコ店が共同経営であったこともあり、屋号が店舗ごとにいくつかありました。営業形態や組織内容を含め、それぞれを整理・統一して行こうという流れの中で、私たちが運営していくパチンコ店の屋号をアクセスに変更しました。

アクセスという屋号に込められた想いを教えてください。

お客様や地域の皆様にとって私たちの店舗が生活する上で欠かせないコミュニティの場として、大切な存在になりたいと考えました。

私たちの運営するパチンコ店が地域のターミナルポイントでありたいという想いから、アクセスという屋号にしました。

日比野 光守/株式会社アクセス 代表取締役社長。1951年生まれの67歳。外資系の営業職を経験したのち、父親の経営する新城興業株式会社へ入社。2002年に株式会社アクセスへ社名変更。

話は変わりますが、日比野社長は若い頃どんな青年でしたか?

1年程イギリスにいたことがあります。当時のイギリスには日本人が少なかったので、よく中国人と間違われました笑。半年ほどケンブリッジでホームステイをした後、ロンドンへ。

ロンドンのアパートには、スイス人が何人か暮らしていて部屋の中からバイオリンやチェロの音色がよく聞こえてきました。その中の親しいスイス人からバリーの仕事を紹介してもらったこともありました。とても良い思い出です。

帰国後に就職したのがアクセス(旧新城興業)ですか。

いいえ。日本に戻ってきて、アクセスに入社する前に外資系企業でフルコミッションの営業をしていました。オーダーを取らないと収入になりませんし、営業で使う電車賃や電話代等の経費は全額自己負担だったので、持ち出しが多くて毎日真剣勝負でした。

当時、妻が出産を控えていたため、出産費用や引越し費用を稼がなければならなかったので、1件でも多くのオーダーを取るために必死でした。

おかげで入社3ヶ月で関東No.1のセールスになりました。

それはハードな仕事ですね。

当時はお金が無くて。静岡に出張したとき、帰りの電車賃が無くて困りました笑。仕方なく夜中、国道を歩きながらヒッチハイクをしていると、やっとのことで定期便のトラックに乗せてもらい、渋谷まで帰って来られました。

この出張ではオーダーを取れませんでしたが、セールス先のお客様が気の毒に思ったのか、「これでよかったら役立ててください」と言って私に持っていた社員名簿を渡してくれました。その後、その名簿から多くの契約をとることが出来て、出産費用も払うことが出来ました。このことは今でも忘れられない貴重な体験となりました。

その後、アクセスに入社することになる。

そうですね。この頃、お義母さんに父親の家業を1年だけでいいから手伝ってほしいと言われました。お義母さんは当時の私を見て不安を感じたのでしょう。私は、お金を貯めて将来自分で商売をしたいと思っていましたので、1年だけと言う約束で父の仕事を手伝うことにしました。

入社時のときの話を聞かせてください。

最初は、父が経営する戸塚駅前のパチンコ店の2階にある喫茶店で働きました。そこでの仕事はとても上手くいって、最高売上を記録することが出来ました。

その後、新城店でホールスタッフとして仕事をしました。現場は色々問題が多く、日々悪戦苦闘していました。気が付くとあっという間に何年も過ぎてしまい、辞める機会を失っていました。

当時の思い出を聞かせてください。

当時は、カバン1つ持ってきて店舗2階の寮に住み込みで働くような時代でしたので、一緒に働く従業員の働き方は、まだサービス業とは言えないレベルでした。何も言わずに欠勤することも日常的で、気が付くともういないということもありました。

最近のアミューズメント業界とは違い、接客業という意識そのものがなかったのです。お客様にしても荒っぽい人が多くて、毎日いかに対応し処理するか、それが仕事でした。

経営に関わり始めたのはいつごろですか?

3年目ぐらいからだったと思います。事務仕事が増え、手形、小切手、出納帳など、金銭面を見ておりました。そういった経理業務を行いながら、売上管理や営業面にも携わるようになっていきました。この頃はまだ、現場の仕事も人が不足すると手伝っていました。

経営は順調でしたか。

1985年頃に一発台の規制があってパチンコ店の店舗数が大幅に減り、パチンコ業界全体が低迷していた時期でしたがその頃、丁度インベーダーゲームが流行りだしたので、私は社長に相談もせず、思い切って、パチンコの営業面積を減らしてインベーダーや他のゲーム機器を設置して、新たな収益確保に動きました。

後編に続く

 

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