三恵観光株式会社、杉本潤明社長 TOPから学ぶ前編
京都府福知山市でダラム800、滋賀県でダラムS-1を運営する三恵観光株式会社の杉本潤明社長のトップインタビューです。前編では三恵観光入社後の詳しいキャリアについてお聞きしました。
2016年2月以来のインタビューです。前回はご経歴もお伺いしていて、大学卒業後に不動産会社、IT企業で働き結婚を機に三恵観光に入社したということですが、入社後についてもう少し詳しくお聞きしたいと思います。
当時、三恵観光はゴルフ場の民事再生のスポンサーとして名乗りをあげており、その事業に担当者をつけなければならないという話の最中でした。そこで当時の支配人候補と、入社した私が担当者としてゴルフ場経営に携わることになりました。
その時はどのような生活だったのですか?
昼間にゴルフ場に行って、高速で約1時間かけて福知山に戻って、夕方からはパチンコ店で働くという生活をしていました。疲れ果ててパチンコ店の近くで少し寝てからまたゴルフ場に行く。もしくは夜のうちにゴルフ場に行ってその近くの家で寝る。そんな生活を1年半くらい続けました。
その後はパチンコの部門に比重を移していったのですか?
そうですね。それだけをしているわけにはいかないという事になって、福知山の本社施設に徐々にシフトしていって、入社3年目くらいでアミューズメント事業に完全に移りました。
その当時のアミューズメント事業の現場はどんな状況でしたか?
私が入社したころはいわゆる、昭和の勤務体系でしたので、その当時からの取引先は今の三恵観光を見て本当に驚いていると思います。他のパチンコ店はすでに制服を導入していましたが、三恵観光は私服に蝶ネクタイだけ付けて働いているような感じでバラバラでした。また従業員がお店の中で平然とタバコを吸っていることもありました。昭和の怖いパチンコ店というイメージそのままでしたね。
そんな中で最初に取り組んだのはどのような事でしたか?
まずは指示した内容を自分の言葉で説明させることから始めました。ただ復唱させるのではなく、理解しているかの確認のためです。皆返事はするのですが、中身をわかっていないことが多くて、店長に「この機械台は良いの?」と聞いても具体的な返答が返ってこないことがほとんどでした。役職者ですらどんな機械台なのか理解するのは自分の仕事ではないと考えている状態だったと思います。
福利厚生はどのようなものだったのですか?
今では考えられないことですが、休みは月2回でした。店休日がそのまま従業員の休みになっていたので、実質休みがないようなものですよね。当時の社長と話し合って月4回まで増やしましたが、それでも今のように新卒採用というところまで考えられる状況ではありませんでした。
当時のお店の従業員は何名だったのですか?
約20名ほどでした。一番若い社員でも40代で、アルバイトスタッフもいましたが定着せず3か月ごとに入れ替わっていました。
やるべきこと、改善できることがたくさんあったのですね。
そうです。社外に情報を発信するためにホームページを作成したり、支払日や給料日も変えて仕組みも整えていきました。考えていた以上に時間がかかりました。
組織が変化してきたと感じたのはいつ頃ですか?
入社して3.4年経ったくらいですね。正直な話、入社したころはスタッフも全て入れ替えて一から始めた方が早いと思っていましたから。
杉本潤明/三恵観光株式会社 代表取締役兼CEO。大学を卒業後、不動産会社やIT企業での就業を経て2002年に家業である三恵観光株式会社に入社。2010年に代表取締役に就任。
話は変わりますが、ダラムという名前は杉本社長が考えたと聞きました。
18歳の時にイギリスに留学していたのですが、その街の名前が『ダラム』です。会社を大きくするという経営方針も決まり、パチンコ店の新しい名前を考えようという場で、私がポロっと口にしたダラムという名前を当時の社長が気に入り、決定しました。
そうだったのですね。現在ダラム800は高稼働店だと思いますが、オープン当初から稼働は高かったのですか?
いえ、オープンして3ヵ月は800台ある中で200台しか稼働していませんでした。起死回生のきっかけは初代冬ソナをワンボックスで購入したことです。島にお客様が付いて高稼働に転じました。昔はイベントも開催していましたので、その時にはしっかりとお客様に還元してお店のファンを増やしていきました。
出店には積極的だったのですか?
現在は福知山と滋賀、2店舗を運営している当社ですが、実は、その前に兵庫県の川西市に300台規模のパチンコ店をオープンさせたことがあるのです。
そうだったのですね。川西のお店はどうなったのですか?
結論から言うと、撤退しています。私が入社した時よりも会社の状況は良くなっていましたが、やはりまだまだ未熟だったのだと思います。福知山の店舗は地域で1番規模が大きかったのですが、川西の店舗は競合店の方が大きなお店でした。その中で勝ち残ることが出来なかった。撤退の直接の原因ではありませんが店舗を任せていた役職者の不正も発覚して、組織が育っていないということを改めて感じる出来事でした。
その後、滋賀県の店舗が出来るまでのことを教えてください
川西市の店舗運営が上手くいかなかったことで、今は力を蓄える時期だと感じて、しばらくの間は太陽光発電施設に力を入れていました。それから時期を見極めて滋賀県にダラムS-1をオープンさせ、現在に至ります。
御社はパチンコホール以外にも様々な事業を運営していますよね。
2007年から前社長の意向で新規事業に力を入れてきました。太陽光発電、ゲームセンター、コインランドリーなどの事業があります。2012年に創業60周年のパーティーをしたのですが、そこからもう一段階、組織が成長したような気がします。
事業間での異動はあるのですか?
タイミング次第ではありますが、希望があればキャリアチェンジも可能ですよ。現在は兼任している役職者が多いので、そこを解消したいと考えています。
2005年には大阪にオフィスビルを取得していますが、会社を大きくしていく準備のために取得したのですか?
そうですね。現在4つのオフィスを構えていますが、大阪のオフィスは私の意向で作りました。まずは体裁を整えてから中身を作っていこうと考えていましたし、自分にプレッシャーをかける意味でもあった方がいいと思ったのです。社長を叱ってくれる人間はいないので、自分で自分を律して物事を進めていかなければならないと常に意識しています。だから、やりたいことを口にしてしまうことが多いですね。
前回のインタビューから4年が経ちましたが、その間に変わったことはありますか。
大きく変わったのは、社員がマルチタスクで動けるようになったことですね。私個人のパフォーマンスに偏っていたのが、組織として同時並行で様々な仕事を進めることができるようになりました。
後編へ続く