こんにちは、パック・エックス通信のはしもとです。
今週は有限会社三岩の守山社長のインタビューです!
物腰柔らかく、お母さんといった印象の守山社長。社員さんへの感謝の気持ち、愛情がにじみ出ているようでした^^
社長就任前は専業主婦をされていた守山社長。もちろんパチンコ業界は未経験。
前編では社長就任の経緯から、就任後に取り組まれたことまでのお話です。それではどうぞ!

TOPから学ぶvol.71
有限会社三岩 守山 真理子社長 前編



守山真理子氏
有限会社三岩 代表取締役社長
祖父が創業した有限会社三岩の3代目として、1997年に代表取締役就任。東京都内に2店舗を経営。2015年までに新たな店舗を出店することを目標に、組織力強化、人材育成に努めている。

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―守山社長本日はよろしくおねがいします。まずは社長就任の経緯をお伺いできますか?

この会社の創業は私の祖父で、叔母が二代目の社長を引き継ぎました。祖父が急死したことをきっかけに、私が叔母の養女となりました。

私は結婚後専業主婦をしており、主人はサラリーマンをしていました。15年程経ったときに、お店の責任者が高齢になったので主人に手伝ってほしいと話がありました。それで主人はサラリーマンを辞めて、店に入ることになりました。

叔母から代がわりをしたいという話があったのは1997年でした。主人ではなく、私に話があり、社長を引き継いでくれとのことでした。
なんで主婦の私がと言ったんですが、あなたが引き継がないなら店をたたむと言われました。主人はサラリーマンを辞めて店に入っていたので、お店をたたむと収入源がなくなってしまいます。古くからいた経理の社員、60歳以上の社員の計5人に辞めてもらうという条件で、私が社長に就任することになりました。ただ、先代はその社員さんたちに感謝の気持ちがあるからと、多額の退職金を支払ったため、私が就任して初めての期は赤字スタートとなりました。

最初はパチンコ屋さんの経営ってどうするんだろうというところから始まりました。
でも店の経理をみたときにどうもおかしいと思ったんです。OLの経験があったので違和感は覚えたのですが、簿記の言葉すらわからず、どこがおかしいのかはわからなかった。そこで通信教育で簿記の勉強をしました。
社長を引き継いでから、やはり現場を知らないと、ということで経理をやりながらホールにも出ました。でもパチンコがわからないので、最初はフィーバーするときに台にさす札がどれかもわからず、常連のお客様が親切に教えてくれたこともありました。

現場からの反発はひどかったですね。ど素人の夫婦が突然現場に入ってきたという感じでした。わからない人がいると邪魔だとか。私は子育てや家事をしながらだったので、肝心な時間にいないと面と向かって言われました。でも私はそういうのを気にしない性格なんです。わからないと平気で言えるところがありました。
主人も元はコンピューター技師で、パチンコをやったこともなかったんです。釘の学校に通って勉強したりしていました。

―先代とはなぜ社長を任せようと思ったといったお話をされたことはありますか?

いえ、特に話したことはないです。叔母としてはとてもいい叔母でしたが、経営者としては疑問に感じることもありました。叱られたこともないし、ほめられたてこともない。何も言われませんでした。でも時間が経ってくると、逆に何も言わずに見ているだけということはすごいことだなと思います。

実は2003年に先代が脳梗塞で倒れたのですが、その後にお家騒動というんですかね、先代と裁判にまで発展してしまったんです。5年間の裁判の間一切会うこともできず、亡くなったことも知らせていただかなかったくらいです。なので先代の想いや考えもまったくわからずですね。

―そのような状態でストレスはありませんでしたか?

主人は10年の間に4回程入院したことがあります。口に出してはいわないですが、体に出てしまうようです。
私はストレスを感じないんですよね(笑)。小さい頃から親に何事もやるからにはきっちりやりなさいと刷り込まれていたので、自分でやると言ったことに関しては徹底的にやりたいんです。病気ではないですが2時間以上熟睡できないというのはありますよ。閉店後深夜2時くらいに家に帰って、4時に起きてという生活を10年やっていたので。子どもが大学に入るまでは部活があるので朝5時には出て行くんですよ。お弁当も2食作ってとか、4食作ってという感じです。子どもの世話をしてから出勤して、17時くらいにちょっと抜けて買物して夕食の支度をして、21時頃に戻って閉店業務してということをずっとやっていました。

―社員さんからの反発があったとのことですが、終息した要因は何かありましたか?

先代の頃からの店長がいる間は、主人が入り口でお客様を出迎えて、いらっしゃいませと挨拶しようと言っても、そんなの必要ないと言われることもありました。店長がそう言えば現場の方も右にならえになってしまいますよね。
その店長が辞めたことが、社員からの反発がなくなっていった要因だったと思います。

―会社の中が変わっていくターニングポイントとなった出来事は何かありましたか?

経営者が変われば会社が変わるということがありますよね。
私はずっとパチンコ屋さんが嫌いでした。引き受けたからにはという思いのみで踏ん張って続けてきました。そんな中で、お家騒動があり、何度も辞めようと思いました。

でもそのときに支えになったのはお客様や社員でした。お家騒動で一時は家から追い出されるかもしれないということもありました。それでも裁判が終わって店に帰ってくると、ネオンがついていて、お客様がいて、社員がいる。それを見たときに本当にありがたいと感じたんです。何としてでもお客様、社員を守りたい。そのためにもこのお店の経営をつづけていきたいと思うようになりました。

その頃からパチンコに対しての意識が変わり、「事業」だと捉えるようになりました。
傍からうらやましがられるような生活させていただいて、社員の方やアルバイトさんにも遅延なくお給料を支払うことができていて、そんな事業をやらせてもらっている。
がんばってくれている社員のためにこの会社を残していかなきゃと思うようになりました。
きれい事ではなく、本当に社員の方に足を向けて寝れないね、とよく主人と話すんですよね。至らない私たちのところでよくとどまって働いてくれるなと。感謝の想いを伝えたいと日々思いますね。

―今日は7割くらいお客様が入っていらっしゃいましたが、以前から強いお店だったんでしょうか?

引き継いだ当時は定休日があり、毎週月曜日はお休み、元旦もお休みし、夏は社員旅行で3日間お休みをしていました。開店してからスタッフが台清掃をしたり、電球を換えたりする等、現在ではありえない営業スタイルでしたが、当時も地域密着というか、常連のお客さんに支えられ、3割くらいの営業だったと思います。

―そこから今の稼動になるまでに、どのようなことをされましたか?

まずは清潔なお店、遊技環境を整えたいと考え、リニューアルしました。資金調達のために銀行に行きましたが、住宅ローンの知識はありましたが、企業の融資はまったくわからず、「融資を受けたいのですが、如何したらよいですか?」と相談しました。
その銀行さんとは長いお付き合いだったので、いろいろとアドバイスして頂きました。経営計画書の作り方もわからなかったので、雛形をみせてもらい、これに書いてきなさいと教えてくださり、なんとか融資していただけることになりました。

しかし、その頃パチンコ業界の景気が下降し始めてきた時期で、業者さんやメーカーさんには「リニューアルの時期ではないですよ。失敗しますよ。」と言われました。でもこのままでは余計お客様は来ない。自分の中ではやるべきだと確信みたいのがありました。結果的には成功しました。お客様も倍増し、その後、4号機が全盛期となり、空きスペースだった2階もスロットコーナーとして増床しオープンすることが出来ました。

また、広告規制前、イベントをする時は、お客様の信頼を得るために、嘘イベントはしないという事を徹底しました。例えば、スロット全台 設定6というイベントがありました。異常なくらいのことをしないとお客様の感動、信頼は得られないと思ったからです。店長はそんなことをしたらとんでもない赤字が出るということを分かっているので、指示通りにやってくれないこともありました。でもやってみないとお客様の反応や、どれぐらいの赤字になるのかわからない。結果は予想以上の赤字でしたが、それにも増して、お客様の信頼を得る事が出来き、その後もお客様の声を大切にする積み重ねが、今に至っていると思います。

―なぜ遊技環境を整えたいと考えられたんでしょうか?

パチンコ屋さんのトイレはきれいというのが当たり前の時代に、うちはそうではなかったんです。高齢者のお客様が多いのに、洋便器ではなく和便器だったり、島通路が狭すぎて、一人しか通れないとか、お客様に不快、不便なお店だったんです。お客様を大切にしない営業はしたくないと考えました。自店でできる限りのことはさせて頂く事が、お客様に支持されるお店になると思いました。

―続きは後編で!

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